一枚の軒瓦の上で鳩が羽を休めています。羽の一枚一枚まで精密に表現されていて、また辺りの様子をうかがうように、後ろを振り返った瞬間は、あたかも生きているかのような趣で、写実性の際立った作品です。「鳩一羽で約一万六千本もの毛描きをして、一つ造るのに二、三日はかかる。ちょっと大きなものになると、ゆうに一週間はかかった」と言います。
また軒瓦を見てみると、蝶の模様が掘り込まれていることに気づきます。桓武平氏に由来するという蝶の家紋は、岡山藩池田氏にも見ることができ、世界遺産・姫路城の軒瓦にも見られます。
陶陽は、安土桃山時代に隆盛を極めた備前焼の「中興の祖」と呼ばれています。それは、この《備前瓦鳩香炉》のような細工物に優れた才能を示したことが契機となりました。この《備前瓦鳩香炉》は、そんな才能を感じさせる佳品です。

釉薬を用いない備前焼にあっても、土の味わいを残した肌が特徴的な作品です。底は起き上がり小法師のように丸く、茶釜としての機能美を備えつつ、ヒビの入り具合が景色となり、陶陽後期の作品の中でも侘び寂びを感じさせる味わい深い秀作です。作品名の釜の蓋を開けたときに、「老婆の口」に見えることに由来すると言います。
そのような陶陽の作陶姿勢は、非常に厳しいものであったといい、次のようなエピソードが残されています。
「土に対してはとくにやかましくいい、土をまたぎでもしようものなら”うちでは米つぶより土の方が大切だ”と叱り飛ばされたものだ。」

赤黒緑といった鮮烈な色釉は、ややもすれば色調の深みを失いがちです。そのため、陶芸家の間でも好んで使用される釉薬ではありませんが、寛次郎はこの三色を器肌に打ちつけ、そのほとばしる滴のリズミカルな調和によって、自由奔放な躍動美の世界を現しています。これは最晩年の技法であり、三色碗や三色扁壷のように三色と名付けられたものは、ほとんどこの技法が用いられていますが、稀には二色の色釉を施したものを、地釉の一色を数えて三色と称した作例もあります。
また、もともとは円形扁平の壷のことを扁壷と言いますが、寛次郎は、晩年のオブジェ風の作にも扁壷と呼び、丸い壷以外の壷はほとんど扁壷と一括して呼んでいます。

鉄薬の器胎に、筒描の技法で草花を描いた壷で、寛次郎が後期に、よく手がけた技法を知ることができる作例です。
鉄薬とは、酸化鉄を多分に含んだ彩料、釉料のことををいい、鉄砂とも称さます。一方で、天目、海鼠、柿、蕎麦、飴などの釉の総称で、釉料としてだけではなく、その渋い色味が好まれて上絵付にも多く用いられています。他方、筒描は、「絞描」「イッチン盛り」「イッチン掛け」とも呼ばれ、江戸期の丹波焼などに見られる手法のことです。竹筒に注口をつけたものや、柿渋を引いた紙を漏斗状にしたものなどの中に泥漿を入れ、器肌に盛り上げた線で文字や文様を描きます。

小袿を身にまとった女性が、一枝の桜を手にして顔に近づけ、花を愛でるような仕草を見せています。ここで
袖元には舞う蝶や藤の花といった季節を感じさせる柄が描かれており、四季を生活に取り込んでいた時代の風情が感じられますが、一方で、色彩は渋めに抑えられています。
この麗人は、小野小町を描いたものと言われています。「花の色は 移りにけり ないたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」とは、小野小町が詠んだ和歌です。「桜の花はむなしく色褪せてしまった 春の長雨が降っている間に 私の容姿もすっかり衰えてしまった 生きていることのもの思いをしていた間に」という意味ですが、華やかな反面、もののあはれを感じさせる奥深い作品と言えるでしょう。

紅白の花が華やかに咲き乱れています。「源平枝垂れ桃」という名は源氏と平氏の旗色が「白」と「赤」であることに由来しています。その花の色は、白が多い時もあればその逆もあり、毎年色の割合が変わる様子が、源平合戦を彷彿とさせます。
画家は、「いのちの連鎖のプロセスを全身全霊で伝えようとしている花の想いを受け止め」、絵を描くそうです。この作品も、多様な花弁が描写されており、年に一度桃が魅せる「繋がるいのちの過程」が感じられます。また、若葉や萼、幹、枝の全てが桃の息づかいを繊細に表現しており、まさしく「いのち」が紡がれた作品といえるでしょう。

 赤い縞模様の布の上に、二つの大きなサンポウカンと小ぶりなミカンが一つ描かれています。皮の表面は、薄い白緑の絵具で下地を整えた上に黄土色を塗り重ねることで、写実的に表現されています。そんな写実的な表現の一方で、周囲を縁取るように塗り残された素地は、光に照らし出されているような印象を生み、幻想的な趣をたたえています。また、中に浮かんでいるように見えながらも安定感があるのは、不等辺三角形をなす果実の配置と、布の直線・曲線とが絶妙に均衡を保っているからと言えるでしょう。
 古径は、余計なものを排除した緻密な構成と厳格な描線で格調の高い作品を数多く遺し、昭和25年には文化勲章を受章しました。
 この《木実》は、そんな古径円熟期の逸品です。さりげない赤と黄の組合せによって、季節の深まりが感じられるのも心にくい限りです。

今を盛りとばかりに咲き誇る藤を描いた作品です。小さく可憐な花は初々しく、苔生した古木の様と互いに引き立て合っています。他方、その可憐な花は「藤色」を引き合いに出すまでもなく、通常、淡い紫色で表現されます。しかしここでは白い花が多数を占め、それは降り注ぐ晴天の日差しによって、光のベールが架けられたようにも見え、幻想的で詩的な趣を醸し出しています。
この藤の木は、福岡県黒木の素盞嗚(すさのお)神社に取材したもので、天然記念物に指定されています。画家の描く藤はこの名木を基にしているとされ、『樹木の間に描かれた、霞がかった空間の中に何か神々しいもの』が感じられると評された作品もあります。
この《春朧朧》は、晩春から初夏にかけて見頃を迎える名木の、見えるものだけにとどまらず、周囲に漂う神聖な空気さえも描写した秀作と言えるでしょう。

ここでは京都市北区の柊野にある八重椿の名木が描かれています。樹高8.8m、樹齢は400年を超えるとされ、1984年に京都市から天然記念物の指定を受けました。ちなみに本当の幹は盛土で隠されており、地表から突き出ているのは本来枝で、中心の最も太いものの周囲は1mにもなり、例年4月中旬から下旬にかけて開花します。
「椿の語源は”艶葉木”との説があるほど、つややかな深い緑の常葉と・・・色鮮やかに咲き分ける花との対照は、うっとりするほど魅力的です。・・・美の女神が棲んでいると確信している」と画家は語っていますが、陽光を想起させる金色を背景に、絢爛豪華に咲き乱れる様子は、新たな生命が芽吹く季節の到来を見事に表現しています。

画家は、日本文化の伝統を今に受け継ぐ舞妓や、現代日本の若い女性を主題とした作品を発表する一方で、とくに四季折々の自然の風物を描いた花鳥画が高く評価されています。艶やかで活力あふれる作風は、次代を担い得る魅力を備えていると言えるでしょう。
この《楓・常磐樹屏風》は京都妙心寺の塔頭・麟祥院の方丈庭園で取材したもの。画伯は冬枯れの楓の大樹に目を留め、あらためて翌年の紅葉の最盛期に訪れて写生を行い、この屏風を完成させました。その時に見た「落ち葉を目前にした一瞬の焔のような紅葉」と常緑の松とを、あたかも光琳の「風神・雷神」のように対峙する構図にまとめ上げたとの由。画伯の代表作と呼ぶにふさわしく、その一瞬の感動が全て表現し尽くされています。